中立

 先日、学校の課題を提出したところ、それに対する評価のコメントが来ていたので読んだところ、「言い回しが抽象的すぎて言いたいことが伝わってこない」と書かれていました。まさしくその通りだと思う。ブログを立ち上げてどうせ自分しか見てないであろう場所ならともかく、課題としてちゃんと目を通されるところでそれを言われたから、さすがに意識するべきだと考えたので、今回ちゃんとしたい。文体についても今回の最後に書こうと思います。

 最近、認識を変えようとする努力をしていて、それはつまり「俯瞰的な視点」ということになって、散々言われているし根本的すぎるからつまらないと感じるけれど、考えないわけにもいけない。直近で感じたものは、「課題、面倒くさくてやりたくない」です。事例があまりよくないかもしれないけど、何事にもあてはまるということで身近なこれにした。これもまたほんの些細の認識の差ですが、なにが・どう面倒くさいのかということを具体的にしていけば少しは良くなるのかなと思います。

 例えば、「文を読んだうえで設問に答えなさいという問題、この難しい単語は何という意味なんだ。結局この文は何を言いたかったのかがわからない」という「できない」場合は、単語を辞書で調べてみたり、文を一部分ずつ読んで少しずつ理解できる。

 対して「このレポートの課題、ネットから文献を集めて、自分の主張や根拠を明確にしたうえで、文章を構成していかなければならないから面倒くさい」という「できる」場合は、単に逃避をしている状態。

 例のようにはっきり区分けできない場合もあるとは思うが、面倒くさい・やりたくないは「できる」からなのか、「できないから」なのかを認識することでやる気につながると思う。こうして書いてみるとやはり当たり前なことだと感じるけど、その初歩的な段階を無視した結果、課題の提出をできずに終わることが起こりうるのではないか。

 

 話は変わって、先日学びの配信コミュニティでとある方の講義を聞いたことを自分なりにまとめます。答えを出せない瞬間はどんな時か、と問いかけられました。私は、「この小説を読んで、自分なりの主題を書いてください」という瞬間です。文の読解にあまり自信がないため、自分の考えを書きだすときに詰まりがちになります。最終的には適当な感想・考察のサイトを開いて、その文をベースに書いていく作業になってしまいます。ここで、「ネガティブ・ケイパビリティ」の考えが提示されました。これは、答えを出さないでいる力、曖昧でいる力だということです。浅い答えに飛びついて浅い結果をもたらすのであれば、優柔不断と思われるかもしれないが、物事の途中で立ち止まってみることも手段のうちだということです。もちろん、答えを出す・判断をする力も大事です。しかし、私のような解釈が多岐にわたるものに関してはこれが適していると思いました。課題として出され、時間の限りがあるものなので、最終的には決断をしなければなりませんが、なにかある問題に対しては、一度計画を止めてみることも大切なのだと感じました。ここで、高校時代に現代文で扱った鷲田清一の著書を思い浮かべた。わからないものに対峙したときに、わかるを欲するが、それはかえってわからなくするものである、ということ。

 

 高校の時であったり、特に興味がなく淡々と聞かされている状況にあるとき、だから何なんだ、何になるんだと思うかもしれない。文学についても、本を読んでなんなんだ、と同じイメージを持つ。ネガティブ・ケイパビリティのような考えを述べられるよりむしろ、物語をベースにして新しい考えをもたらすほうが自然と入ってくるのではないか。そこで新しい知識であったり、価値観が生まれると考える。

 ここで、これまで書いて考えたことは、全部嘘だったかもしれない。(表現しづらいが)断定はせずとも、他の選択に関する言及をしていない。まだ一部をみて物事を判断しているに過ぎないのかもしれない。少なくとも、上記に関する書籍はちゃんと読んではいないため、その根拠がない。あくまで現段階の知や考えをまとめただけのものである。今後また他の知識を得たうえでまとめていこうと思った。

 

 最後、文体の話をしたい。最近Twitterで文体の話が話題に上がった。その元の、有名になった文を見てみたところ、「テンションが高いな」というのが第一の感想で、そのほかは特になかった。これが散々な言われようだったところから見ると、自分もその気持ちの悪い文体なのだろうと感じた。とあるTwitterのユーザーの知見から、自分語り、自慢・セルフツッコミ・セクハラが含まれていると見た目が良くない文体であるという。これはあくまで個人的な感想ですが、自分語りやセルフツッコミはいわゆる陰キャが無意識的に使ってしまうのではないかと感じています。特にセルフツッコミは、プライドの高さからくるものなのか、自分の正当性を保とうとして用いられるという気がします。また、「www」や「。。(句点を連続する)」などは、読み手との温度差を広げる要因で、フラットな目線での発言(話し手)や受け取り方(聞き手)に大きくブレが生まれると感じています。

 私にもこうした気持ち悪さが文に表れていると考えていて、過去に投稿した大半はその日の嫌な感情をそのまま文字にしてぶつけているに過ぎないため、一方的な話し方になっています。今回はそれに注意しながら書きました。しかし、「どうせ見られない」という思考を盾にして、今後も気分で文体は変えていこうと思います。