雑記ばらん

週が始まったときの月曜日の授業、しんどすぎる可能性がある。

また4時に書いてるし。

 書き記そうと思い立った当初は割とかための文体で書いていたけどだんだんくだけた感じになってきている。入学当初は緊張していたけど慣れてきた奴かい。

 わたくし校長から、みなさまにお話があります。え~、夏休みはいかがだったでしょうか。私はね、『ケーキの切れない非行少年たち』という本を読みました。めちゃめちゃ簡単に言うと、認知する機能であったり、思いつきや対人行動によって世間とのずれが生じてしまうということでした。そこからちょっと別の方向に話をしますが、適切な自己評価という点において、行動によるものも含む、相手の表情を読む力は重要なのだと感じました。自分だけで、思い込んで自身の評価をしてしまうのではいけないというわけです。

 優しさとは、自分、相手、どちらに向けるべきものなのでしょうか。私の幼少期(とくに小学生)は家の内外を問わず、感情をむき出しにしていました。怒りや嫉妬は隠さない傾向にあったと記憶しています。そのことをふと思い出したときは、「今ではそれを表には出さないようになったなあ」と思うものでして、無条件に絶対切れるラインを100とすると、人前では80~90くらいまでは思い切り自制がつくようになったと感じます。対して家では60くらいまでラインが後退して、まあまあ怒りやすいなと感じています。”人前では怒ってはいけない”という意識を強くもっているわけですが、ここで、優しさ(気遣いをしてくれていると明らかに分かった瞬間)をもらうことがありました。そこで私は、「相手は、出来事のその部分に対することについて気を遣わざるをえなかったのではないか」と考えました。こういったことは大事だと思っていて、自分がどうであるかの客観的視点が直接得られる、かつ相手がどういう点は良い(悪い)と思っているのかをだいたい予測できると考えています。結果そこでは良い感じに場が流れたのですが、改めて考えてみると、その気遣いは『相手を想った』ものなのか『自分を想った』ことなのかということ。おそらく、先の例に限らず『自分を想った』ものに自然となるのかもしれないと感じた。これは要するに利己的なのか利他的なのかということになって、本当に親密な関係性でない限り、その投げられる優しさは表面的なものに過ぎないのではないでしょうか。校長先生はわかりませんけどね。