はじめての日記 Wii

人間は不幸であるべきだと思う。幸福と不幸は表裏一体で、(かといって幸福「でない状態は不幸である」とは言えないが)例えば、「おいしいものが食べられる」幸福には「おいしいものが食べられない」不幸がある。この不幸にフィーチャーすると、障がい(先天的)、身体の負傷(後天的)、マイノリティに対する処遇などが挙げられると思う。物事を知るには、自分がそれらになってみるのが一番手っ取り早い。だがそれができないから「相手の気持ちになりなさい」とか「違う視点で」とかになるんだと思う。不幸であるべきとしたのは、そういった「視点を変えて」というものを一番実感できるのではないかと思ったからである。もう一つは、自分の中の”嫌いなアイツ”とか”優位に立たれたソイツ”みたいな劣等感からくるものも含まれているのかも。性格が悪いから。

 一方で、人間は不完全であるべきである。「完全」を、なにか物事に対してそらんずる、であったり、設定された目標に何の支えもなくこなすことができるようなものとすると、人は飽き、興味を失う。例えば、歌を鬼リピして完全に歌詞を覚えると、そこからは聞く頻度が減る。恋愛における倦怠期でも似たようなことが言える。しかし、一度間をおいて記憶を曖昧にさせると面白く感じる。このような点で不完全であるべきだと感じる。私は最近インディーズバンドを好んでよく聞くが、別にその「曲が」好きなのではなく「インディーズバンドだから」好きなのだ。だから歌詞に注目して聞くわけではないし、「バックグラウンド」として聞いている。(例外もある。)話が逸れたが、とかく物事を高いモチベーションで続けるには大事だと思う。ここで「不幸であるべき」は、幸福を補うという点で「完全であるべき」というこのなのだろうか。そうなると撞着しているといえる。

 

 

 私は少数派でありたい。変な人になりたい。「なにそれ~キモ~いやめてよ~」と言われたい。それは流行は批判されてできるものということを信じているから。私は結構な懐古厨で、いわゆるオッサン、オバサンに通じるようなネタを好むし、「お前いつの時代の人間だよ」と言われる。それを嬉しく思い、そうして私の自己顕示欲を満たしている。ただ一つ問題があるならば、年下の子たちには全くもって理解されないこと。わざとらしくネタをかましても、キョトンとされ申し訳なくなる。テレビもドラマも見ないようなネット世界の住人としては、今の世代に必死にしがみついている。

もっと!日記DS

日常のなかで、急に眩しさを感じることがある。例えば、電気のついている部屋に居るとき、ふつうにしていたが、明るさを意識すると急に眩しく感じる。それは光源によるものではなく、色に関しても同じ。白紙を見ているときでもそう。急に眩しく感じる。この間他の人からも同じ話を聞いた。

 

邦画はいいなという話をする。『晴天の霹靂』を観た。いいね、マジック。よくテレビや動画で見るようなマジックは、「これのタネ知ってる!」を基にして見られるものだと思っている。現にマジシャンはその一言が一番刺さってしまうらしい。すごいことをしてるから「すごい」でいい、と思う。

タイムスリップものって、「過去を改変して、現在軸にいる自分を幸福にしよう」のものになっていて、現にそれは見ていておもしろいからいいんだけれど、これは現在に与える影響は描写されずに、起こっていた真実を知るものだったのでいい締りだったと感じた。小説ではそこがどう描かれているかはわからないけど。

日記

気分が落ち込むと、固い知識を得ようとするような傾向があると思う。そこで幸福を求めようとすると、それらが必要ではなくなるから、逆に考えると今しか得ることができない可能性があると感じた。しかしそんなものは所詮は見掛けの客観視なのかなとも思う。ともあれどんな境遇であれ「そう」だと思い込むことが成立の条件なんだと解釈した次第で。

 活字を考えて読むことは嫌いだったようで、中学はライトノベルをそれなりに読んだ。ある時期を境にその世界観を文字として読むことに対して興味がわかなくなった。

 最近では、論文を読んだりとかすることが増えて、それに慣れたのかもしれないが、割と普段の文字での会話では変に難しい言葉を使おうとしていると感じる。覚えたての語をひけらかすかのようなものだと知覚している。自己顕示欲の一環なんだろうな。

 以前、「小説を読んできて、感想を書け」という課題が出された。本を買って、その1割にも満たないところで頓挫したことを覚えている。それ以前の高校時代にも、調子に乗って太宰だの宮沢だのを買っては速攻で積んだ。しかし驚くことに、最近になって自分で本を買った。それも活字オンリーの。しかも読み終わった。そして短期間に3冊も。これには衝撃を受けた。ただこれは昨日今日の話になる。文芸ではなく文学を読めるのかという話。

 買った1冊は、反出生主義について書かれたもの。その理論の一部分において分かったことは、「幸福」「不幸」という状態にあるとき、人は道徳に基づいて行動を起こす。それは「幸福を増幅させる」ことよりまずは「不幸を取り除く」という。要するに「ゼロからプラスに」よりも「マイナスをゼロに」ということ。ここで、『「マイナス」から「ゼロ」』にかけた過程において、最初に書いたようなことがつながるのではないかと考えた。

 と、「見掛けの客観視」と思っているのは、今私が何気ないことからそのような視点にうつったのではなく、一定の感情から得られたものだということで、その延長でこの文も書いている。それは不安とか、不幸とか、そういったものだと思う。多くは「未来への不安」。なにかにつけて、その悪い未来を想像する癖がある。(はじめて自分のことを開示しているし、個人的なことで、全くここに書き込むメリットはないけれど、)ここでみんなの好物、恋愛話を。先日お付き合いしていた人と別れた。理由は、なんだろう。追って話す。

 多くに、自分の矜持によるものがあると思う。第三者の視線への過度な意識。2度の付き合いの中には必ず、周囲の人間の存在を意識していた。友達、クラスメイト、SNSでのフォロワーなど。ここには、自分から素直に感情を表現できないことがある。「好き」という言葉が、恥ずかしいからか何なのか、異様に嫌いだ。加えてもうひとつ、周囲の人間からの評価を得たい、と思うこと。ある人物に対する嫌悪の感情は表には出さない。また内に秘めたとしても、「自分になんらかの影響がない限りは中立であろう」とする。これがそうでなかったとしても、一定の距離があるものにはこれをおこなっているという意識がある。この考えから、たとえ親族であっても、付き合っている人だとしても、同様に他者からの評価を優先している節がある。これが気に入っている点で、嫌いな点だ。

 自分の在り方について考えることが多くなった。これこそ、言ってて恥ずかしくないのと思うかもしれないが、結構良い。高校を受験する際、高校に合格しなかったら何も持たず遠いところまで行って餓死してやろうと思っていた。大学受験の時もそう。しかし結果は運よく合格してしまった。未来を不安視しすぎることが感じられて、振り切ってしまおうと思った。逆に考えたら、どんな恥ずかしいことをしても死ねばチャラになると。それは今も同じだといえる。だから、「在り方」は、「ボクはいまこんな学歴でこんな能力をもっているから将来こうなるべきなのか」のような明るくまばゆいものではない。かといってこれを理解した上でここから踏み出す勇気もなし、ただ時間に解決依頼をだしているだけ。不安になって、考えて、結局今を適当に過ごせればいいなと思う。